はんなりブログ

何者でもない人間の日常。気軽にコメントください。

自分

 

今日も2時間電話をした

将来のことについて話しているから

全く無駄な時間ではない

 

本当に、数少ない友達から好かれてるし

好きなんだなって思った

 

自分には、自分の意思やしたいこと、やりたいこと希望や夢があるけど

それを叶えなければ、人生の長さに絶望をしてしまうのではないか

 

夢というのは社会の役に立つことだ、人の役に立つことだ

そしてそれをめいいっぱいやりとげることだ

 

綺麗事をっていうのは、綺麗な心でというか強い心でそれをみたら、全然綺麗なものなんかじゃなくて、案外すごく普通のことなんかじゃないのかな

 

弱い心で見るから

それが非現実的なもの、叶わない夢として見えてしまう

だから、綺麗に見える

といったところではなかろうか

 

弱い人間ほど綺麗事という言葉を使って逃げているんだろう

 

一般化していってみたけど、これは全部自分の話しだ

自分がそう感じたから言っている

 

ここで気をつけたいのは、強い心と弱い心は

どっちがいいわけでもない

 

強いと弱いという、言葉で表してしまったけど

 

前者と後者を鈍感な心と繊細な心と言ってしま

えば

また印象は変わってくるだろう

 

なにが言いたいかと言って、自分の考えが変わって、強くなったと思ってしまうかもしれないが

それはただ、鈍感になったと言える

 

だから、自分が考えていることを全て正しいと思うな、

綺麗事と言って否定する自分や他人をを理解して

受け入れろ

 

考えを、押し付けるな、上からになるな

たとえこれが正しいと思っても

 

自分の正しいであって

人の正しいではないのだから

 

あぁ、話がすごく脱線した

話を戻します

 

自分のやりたいことは何か

そこまで一番上まで戻します

 

社会のためにや人のためにって思うことは

思えば、全然綺麗事なんかじゃないのではないか

なぜかというと

自分はというものは、周りの人から社会からとてつもない影響を受けて成り立っている

同じ自分が産まれたとしても

時代が違う、場所が違う、関わる人が違えば

全くの全く

違う人になっていただろう

 

だから、自分を使っているのは自分なんかじゃない

自分以外のものだ

 

だから、他人や社会のために、働きたいという希望は当然といえば当然だし

 

それが、自分のためになるのだ