はんなりブログ

何者でもない人間の日常。気軽にコメントください。

温泉

 

自分は幸せだ

 

なぜかというと

温泉に入ったからだ

 

なぜかというと

お風呂あがりにビールを飲んだからだ

 

なぜかというと

くだらない話をして笑いあえる友達が

数少なくいるからだ

 

笑顔でいるだけで

それで良かったりする

 

今まで生きてきて

どういうことに対して喜んできたか

悲しんできたか

なんとなく自分の性格もわかってきた

 

温泉に入って

風呂あがりに気心の知れた友達と

脳みそを全く働かせないで話すことが

幸せレベルが高いと感じる

 

温泉が好きというわけじゃなくて

人と話す口実が欲しいだけ

だからドライブも大好き

 

仲の良い人と話す

いい機会になるから

 

そういえば修学旅行とかも

バスの中が一番好きな時間だったな

 

自分の幸せは多分それだ

自分と同じことで笑ってくれる人が

居心地がいい

 

この居心地の良さを

早い段階で築いていければ

もっと生きやすい人生になるだろう

 

まぁそれであーだこうだと

悩んでいたけど

 

悩むだけ無駄ということもわかった

 

自分は幸せだ

今日も生きることが出来た

 

自分は不幸せ

今日も生きないといけない

 

どっちがいいのかはわからないけど

上に上にと気持ちを作っていこう

 

 

甲子園

 

 

みのまわり

ほんとうにありとあらゆる娯楽で満たされて

いつでもなんでもある

 

情報を発信するハードルがどんどん下がって

多種多様なニーズに合わせた娯楽を提供できるようになっているから

どれを選ぶのかはその人次第である

自由な反面、責任は自分でとらなければならない

 

主体性がない人間にはまさに存亡の危機に瀕しているといっても過言ではない

 

規模は小さくなったといえど

多種多様になったコミュニティでわいわいしていることもできずに

どこかとり残されたような感覚に陥る

 

自分で好きなものを決められなかった人間の行く先に明るい未来はなに1つない

 

皆が主人公になれる時代で

主人公にはなれずに

それらを応援する人にもなれない哀れな人間

 

自分がこういう人になる可能性を秘めているかどうかというのは一発でわかる

 

それはにわかファンになるかどうかだ

ひと昔前でいえば

なでしこジャパン金メダルや

ラグビーワールドカップでのジャイアントキリング

 

最近でいえば

ベルギー対日本の試合

甲子園決勝

 

それらの大きな試合でにわかに感動してる人

その後にはもう見向きもしなくなっている人

 

たしかに

奇跡的なドラマがあって

多くの人の注目を集めて

日本中を1つにするようなパワーを持っているすごい出来事だ

趣味嗜好が多様化する中でそのように

国民全体が盛り上がりをみせるようなコンテンツは少ない

 

だからこそ

そういう盛り上がりに1つの安心感を覚えてしまって

本当に自分にとって良いものかどうか

感動するものかどうかという判断を省くことができる

にわかファンは最も鈍感だといえるのかな

 

大きな注目を集めることは大変に良いことで

その業界にとってプラスになる

裾野が広がることでお金や人が集まってその業界が盛り上がっていく

にわかファンを拒否する理由なんてどこにもない

ほんとうのファンにしていく努力

ほんとうのファンを増やしていくのが今後の生き残りをかけた競争になるに違いない

結局、産業というのは一部のプロではなく

不特定多数の消費者を相手取ることで大きくなっていく

高度経済成長も大衆の消費力なしには絶対に達成しなかった

 

話がすごく脱線してしまったけど

今日のテーマは

にわかファンはにわかのままで良いのかということだ

リンカーンの言葉を借りていえば

にわかのにわかによるにわかのための議論だ

 

全員が注目するようなおおごとにならないと

自分の心が動かないような

主体性のなさでいいのか

 

そして

自分でなにが好きかを判断しないまま

流され続けていいのか

 

 

コンテンツが多種多様になっていって

コミュニティが小さくなっていったとき

選ぶ力が必要だと思う

決めるのは自分しかいない

好きなものに責任を取ろう

 

 

それにしてもすごく極端な話をしたな

 

 

 

 

 

不節制

 

 

最近また不節制が続いている

ここ1ヶ月くらい

筋トレやら食トレやらなんやらの太る策を講じて来た

成果はまずまず出ていて

二キロくらい太ることができていたけど

 

2日くらいサボるだけで

1キロ平気で痩せてしまう

 

なんの努力をしなくても

平気で体重が落ちる

この事実はかなり深刻だ

 

努力が水の泡になるのが

すぐ背後に迫っているという圧迫感にかられる

 

この圧迫をいかに乗り越えて継続するか

それが鍵になってくる

ちょっとの差が長い年月をかけた時に

大きな差になる

 

小さな妥協は取り戻せない

 

まぁそうとして

多く食べられないことが主な原因だろう

そして

食欲が湧きにくい体質で、空腹を感じにくいのも理由の数ある理由の1つだろう

 

食べなくても生きていけるから

 

そうやって考えると

自分の生涯の摂取カロリーは

人の6割程度だと思う

 

わざわざ生涯って言う必要もないかもしれないけどな

 

その1キロカロリーあたりの価値っていうのは

相対的に上がって来ると言いたい

 

つまりなにがいいたいかというと

なにを食べて生きていくかが

自分はより重要になっていくってこと

 

食べると言うことは

まさに人生経験とまったく同じだと思う

 

なにを食べるか-どんな経験をするか

どのくらい食べるか-どのくらいの頻度か回数か

どのくらい吸収するか-そこからなにを学ぶのか

 

これがそれぞれ対応してる

つまりは

太りたい時になにを食べるか

どのくらい食べるか、何食食べるか

そして、どのくらい消化してみにつけるか

 

この3つを考えながら豊かな体を手に入れていかないといけない

 

わかっちゃいる

わかっちゃいるんだよ

 

机上の空論ばかりする自分が

とっても嫌になる

 

 

 

ベルリンの壁

 

 

ルパン三世の第1シリーズを完走し

第2シリーズに突入した

 

第1シリーズは日本が拠点だったけど

第2シリーズは世界をまわって行く設定だ

 

23話あった1に対して

2は150話ある

 

すごい量だ

自分も含め大体の人がイメージしてるルパンは2だと思う

 

ルパンが赤い服を着るのも

あの有名なテーマも実は2からで

銭形警部がインターポール所属と設定も1の時には無かった

 

ルパンはなんか安心してみられるからいいし

1話で完結するから楽だ

 

実はルパンは1で1年牢屋に入れられてたし

2も5年経っているという設定だ

 

よくアニメにおいてはサザエさん時空が使われるけど

 

ルパンも変則的サザエさん時空の一種なのかな

時間は経つけど歳をとらない

 

まぁそんな事はどうでもいいとして

 

ここから面白いと思ったところを書く

昔のアニメをみることで

今との違いが鮮明にわかることが面白い

 

2は世界を旅する話と言ったけれど

とある話にドイツのお宝を狙う話がある

そのお宝がヒトラーの遺産である

ヒトラーが普通にアニメに出てることもすでになんかちょっと不思議

 

そしてなにより普通にベルリンの壁がある

1977年のアニメだからそれは普通のことなんだけれど

ベルリンの壁は物心ついたときから崩壊していたから

ルパン達が一生懸命に東ベルリンに乗り込む姿は新鮮だった

 

まぁなんで東ベルリンにルパンが乗り込むかというと

ヒトラーの側近が東ベルリンにいて

その人から遺産の場所を聞き出すためだ

 

その人はもうおじいさんで、ボケてきてる

 

ルパンとそんな老人のこんなやりとりがあった

 

あの手この手で聞き出そうするルパン

それに対して老人は

 

記憶にございません

 

と返す

ルパンはそれを古い言い回しだとつっこむ

 

なんだか印象的だった

 

記憶にございません

っていうのは今でも国会やらなんやらで使われる

 

40年前のベルリンの壁がある時代から

古い言い回しだと揶揄されているのに

その逃げ口上は全く変化していないことが

面白い

 

 

 

 

 

8/18

 

めんどくさいことから

逃げた

 

実はそんなにめんどくさくないのに

理由もなく逃げた

 

自分は生ぬるい毎日の中で

弱くなったのかと思う

 

すごく良く言えば

逃げるは恥だが役に立つ

が身についたのかもしれない

 

他人のことを気にしすぎて

他人の目線におびえてた

そんな自分ではもはやない

 

だからといってむやみに人に迷惑をかかることはしてはならない

しかし、他人のために自分を我慢する必要もどこにもない

ようはバランス第一だと思う

 

慣れないことをするときは

バランスがわからないことが多いから注意したい

 

まぁ色々言ってるけど自分は最低だ

だけどこれ以上考えない

 

ハイ次に目を向けて行く

 

 そういえば年の離れた人とコミュニケーションをとることは大切らしい

 

自分の場合、同級生しか友達いないし

2、3離れた人とすら仲良くできない

凝り固まった価値観を持っている

 

だから、たぶん

いろいろ

なんか

かだいが

おおいような

気がするな

 

五山送り火

 

毎年8月16日京都の五山送り火

お盆だから実家に帰っていて

一度も見たことがなかった

大学生活最後の年だから

最後のチャンスになるかもしれないと思って

今年はみることにした

 

実は下宿先から東の大文字が見える

遠いけれど建物の間からちょうど顔をのぞかせている

結構レアな物件だと勝手に思っていた

午後8時ベランダからその東の大文字が

オレンジ色に燃えるその瞬間を見た

四年目にしてはじめての光景に少し感動した

 

送り火

東西の大文字と妙と法、船形に鳥居形と計6つある

 

3年間一度も見たことがなくて

4年目にして初めて見た送り火を他に見たくなって

急いで自転車に飛び乗った

 

この大学生活のやり残したことを

取り返せるはずもないのに

とりかえせることが出来るような気がして

自転車を急いで走らせた

 

イムリミットは1時間

 

外には送り火の見物人が道路に出ていた

とにかく北へ北へ

船形を見るために

堀川通りを進んでいった

 

北山大橋に着くと大勢の人が橋の上から

写真を撮っていた

山に燃える船形と川の水面に映る船形

二艘の船を写真に収めて

眺めることも早々に切り上げて

人混みをかき分けて

今度は東に自転車を走らせた

 

妙と法を見る時間があると踏み

今まで一度も通ったことない道を

わかりやすい道とざっくりとしたマインドマップ頼りに

真っ暗な道をずんずん進んでいった

 

京都市でも北のほうに行くと

碁盤の目の通りではなくなる

山が近くなって曲がった道に差し掛かった

それでも進もうとすると

急に目の前に広い池が出現した

 

賑わっていた人通りもなく

真っ暗な池が眼前に広がると

夢中だったはずなのに

なんだか急に怖くなった

道を間違えたみたいだ

少し引き返して

送り火がみえるスポットを改めて調べて

 

今度は正確なグーグルマップを頼りにして

人通りが多い場所に戻っていった

 

しかし人が多くても

お目当ての送り火がみえない

山の方を見ても何もない

曲がった道を通ったせいでバグった方向感覚を疑って360度見渡しても

どこにも見えないじゃないか

 

なんでだろう

改めてネットで確認すると

送り火は30分間の点灯らしい

自分が到着する10分前には消えていたらしい

 

1時間だと思っていたのに

リサーチ不足だったな

自分らしい

 

やり残したままだなと

気が抜けてしまった

全く知らない道をずんずんと進んで

結構遠くまで来てしまったみたいだった

 

夢中で進んだあの時間は

たしかに圧縮されていた

なにかが自分を突き動かしていた

それがなくなって

急に帰るのが面倒なってしまった

 

だらだらと漕いでいた帰り際

古びた商店街で路上ライブをしていた

ギャラリーも案外多かった

特に聞くつもりも全くなかったけど

信号に引っかかったから聞いていた

 

信号に引っかかっているうちに曲が終わって

客も引いていた

近くにいたおばさん2人組もそれぞれ帰路につくみたいだ

 

また一年後会いましょう

 

って言っていた

 

次会うのが一年後になるのに

まるで毎日一緒に登校している小学生みたいな

あっさりとしたお別れだった

 

なんだか不思議な気がした

 

想像しようとしたけれど

その時ちょうど降ってきた小雨が

気になって

その人たちは頭から離れていった

 

そんな小雨もすぐに止んで

 

だらだらと漕いでいた自転車も

見慣れた道へ帰ってきた

 

送り火を見るのに出ていた家族やカップルももういない

 

通りやすくなった道路を走って

下宿先へ着いた

自転車を止めて階段を登って

自分の部屋に着いた

 

カーテンを開けて

ベランダに出てみる

三年間みてきた景色となにも変わらない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セブンルール

 

 

セブンルール

 

なんとなく生きている人は決して出られない番組だ

もし自分が出演するとしたら

どんなルールを作るだろう

 

朝起きたら歯を磨くを1つに入れないと

7つも埋まらないような気がするけどな

多分本当に適当に生きてることが露呈する

 

そんな自分とは裏腹に

高齢化が進んだ地域に弁当を配達する

サービスをしている若い女性が出てた

カラダの不自由なお年寄りにとっては

買いに行くより来てくれた方が大変楽で

もうその地域はその人無しでは成り立たない

と言う状況まで来てるそうな

 

人と人との繋がりは

世の中どんなに進歩しても変わらないもので

進歩すればするほど

重要になってくると思う

なんでかと言うと

便利になって、自分の時間が増えたりする

欲望を叶えるために世の中便利にするわけだから

究極のところ

生きる意味のために時間を使うようになってくるんじゃないかと思う

そういうことは人それぞれ色々あるけど

誰かと心を通わすことで

人は楽しく生きていけるんじゃないかと思う

人と話したくない人は少数派だと思う

一人遊びが得意な人だって

誰かが作った製作に思いを馳せて

同じことを語り合えるコミュニティに何かしらの形で参加したいはずだし

製作者本人に会えたら涙するかもしれない

 

まぁ長くなったけど

何が言いたいかというと

お金が、技術が、快適さが

全てを解決するにはちょっと不器用なのかもしれないって思った

 

お金を払えば人は雇える

人さえ雇えば配達は出来る

人を雇わなくてもドローンか何かで弁当を飛ばすことだって出来るようになるかもしれない

 

だけど

 

そういうことじゃないんだろうな

 

文字にしようとすると

心の中にある

そういう事じゃない何かを正確に表すことができないから妥協する

力不足

 

だけど

心を動かされた事実があった

 

なにか社会に出来ること

それを自分で見つけないといけない

 

ビジネスになれば良いけど

ならなかったらボランティアだ

 

そんな慈善事業に懐疑の目を寄せられることも少なくはない

 

ビジネスになれば認められるような気もする

 

そんなことはどうだっていい

その女性にはそれすらちっぽけなもので

そこには力強い

生き方

があった

かっこよかった