例えば空手道場がコロナで休みになって
生徒たちに空手を教えられなくなった師範代が
リモートで空手教室を開く
そうなると
空手道場を閉鎖せずに空手を教えられるけど
場所の制約がなくなったときに
地区の空手道場の師範代は
オリンピック選手の指導に勝てるのかはすごく疑問
高校の授業だってそう
zoomで英語の解答解説するのもいいけど
画面の中にはもっと面白くてわかりやすい先生が沢山いる
コロナにはそういう現場の人たちの仕事を消しとばしてしまう可能性があるし
コロナがなくたって
オンラインの恐ろしさを感じられる
詰まるところ
そんな現実が来るとは限らないけど
来た場合には
どのように生きるか
なにができるか
なにをしたいのかという
哲学的な質問に向き合わないといけない時期が来る
その質問にはめっぽう弱くて
死にたくなるくらいになるけどね
生きるためには他人にとって有益なことをして
対価を受け取らないといけないけど
自分らしさは他人にとって有益なものになるとは限らない
私にとっては
苦しくない創作活動と言ったらこうやって文章をつらつら書いていくことだ
自分らしさを追求する時間が必要だ
それが人のためにならなくて当然だ
自分が得意なことが人のためになったり、有益なことになる方が珍しいし煩わしいものなんじゃないかな
そのような結果
誰の役にも立たないということは
限りなく自由に近いと捉えられるんじゃないかな
なんてことを朝の車の中で思った